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天気雨、海へ

 朝食を終えて、部屋に戻ろうとしたところで、浜辺に出てみたくなった。昨日着いたのはすでに陽が落ちた後だったので、まだ一度も海を見ていない。
 ホテルを出ると、澄みきった空には雲ひとつない。早朝の砂浜は人気がなく、犬を連れた男性の姿が遠くに見えるだけだ。波も、風も穏やかだ。やわらかな砂に靴がめりこみ、歩きにくいが感触は悪くない。灯台の方向に見える岩場をめざして歩いていると、頬に冷たいものを感じた。波のしずくではなかった。ガラスの粒が舞うように周囲がきらめいている。雨だった。見上げると、空は相変わらず真っ青だ。引き返そうかとも思ったが、そのまま散歩を続けることにした。雨粒は霧のように細かく大した支障もなさそうだし、それに、何よりも、空と海を背景に雨粒が陽光に輝く様子は見たことがない美しさだった。
 岩場にたどりつく頃には、体がほてって、雨が心地よくすら感じるようになっていた。重なり合った岩の隙間から、光って見えるのは水たまりのようだ。何か珍しい魚でもいるかもしれない。つかまりやすそうな箇所を選んでよじ登って顔を出すと、人の姿が目に入った。白いワンピースを纏った少女だ。小学校高学年か中学生くらいだろうか。膝まで水につかって、じっと水面を見つめている。手頃な場所に腰をおろすと、気配に気づいたのか、顔をあげた。その瞳に警戒の色が浮かんだようなので、ほほ笑んで見せたが、表情を変えることなく、身をかがめ、水中から何かを手さぐりでつかみあげた。そして、ぎこちない動作で伸ばされた右腕が何かを探すように空中をさまよう。右手の先の岩には籠が置かれている。察したぼくは、岩から降り、水たまりをつたって歩き、少女の手をとって、籠へと導いてやった。一瞬身をこわばらせた少女は、すぐに唇をゆるませて、か細い声で「ありがとう」と言った。目が見えないのだ。
「何をとってるの?」
 少女は、しばらく籠の蓋に手を置いたまま迷うそぶりを見せたあと、「貝」とだけ答えて、すぐに逃げるように水中に手を入れた。目の見えない少女が、知らない大人にいきなり声をかけられれば不安に決まっている。それ以上話しかけるのはやめにして、少女が貝を籠に入れるたびに、手を貸すことにした。
「ここでしか取れないの。食べると目がよくなるって、友達が教えてくれたんだ」
 何度か手助けするうちに、少し打ち解けてきたのか、少女の方から話してくれた。
「とるの、手伝おうか?」
 水に足をひたすのも気持ちよさそうだ。
「ううん、いっぱいとれたから、もうおしまい」
 少女は確かめるように籠を軽くゆすった。貝が触れ合う固い音がした。
「目、よくなるといいね」
「うん」
 少女は初めてにっこりと笑った。降り続く細かい雨に、しっとりと濡れた長い髪が首筋にはりついている。少女は両腕で籠を持ち上げようとしたが、籠は岩の上で少し動いただけだ。彼女の腕には重すぎるようだった。
「運んであげるよ。家、近くだろう?」
 一瞬、照れたようにうるんだ少女の瞳が、みるみる暗く染まった。
「本当に、ちゃんとおうちまで運んでくれる?」
 籠をしっかりと両腕で抱えたまま、少女は低くささやいた。疑念に満ちたそのことばの意味を図りかね、聞き返してみた。どうやら、目の見えない少女は、近所の少年たちのからかいの標的にされているらしい。先日も、買物帰りに荷物を持ってやると声をかけられて断り切れずに渡したら、いつのまにか、隣を歩いているはずの少年がどこかに消えてしまっていたとのことだ。荷物は、すぐ近くの神社の境内で無傷で見つかったので、面白半分のいたずらのつもりだろうが、少女の心には深い傷となって残っているようだった。
「だいじょうぶだよ、ちゃんと運んであげるから。約束する」
 できる限りの優しい口調で言うと、やっと安心したらしく、少女は籠から手を離した。少女の家は歩いて五分ほどのところらしい。ずっしりと重い籠を抱えて、少女の後について砂浜を歩きながら、何気なく、籠に視線を落とす。目地の隙間から、丸みを帯びた貝がぼくの歩調に合わせて揺れている。珍しい貝なので、よく見ようと顔を近づけてみると、黒い中に、ところどころ白い部分があり、光っているようにも見える。濡れた貝が日の光を反射しているのかと思ったが、どうもそうではないようだ。足を止めて、蓋を開けてみる。ふちまでぎっしりと詰まった貝は、ビー玉より少し大きめの球形で、光っているのではなく、動いているのだった。そこにあるのは貝の形をした眼球だった。おびただしい数の黒目がぎょろぎょろと周囲を見回すようにひっきりなしに蠢いていた。気づいた時には籠を放り出していた。岩に叩きつけられた籠から眼球が四方八方に飛び散った。音に気づいた少女が振り返った、その瞳はとても悲しげに沈んでいた。足元に転がる無数の眼球が一斉にぼくを責めるようににらみつけていた。恐怖のあまり、ぼくは、その場を走って逃げだした。
「嘘つきっ!」
 少女の上ずった絶叫を背中で聞きながら、無我夢中で砂浜を駆けた。陽光の下、雨はまだ降り続いている。



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砂猫
Posted by砂猫

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